Friday, November 24, 2017

私達は日本語という環境の中で現状をほぼ何の疑いもなく当たり前のように生活しています。しかし、国は国語としての位置づけで政策を立案実行しているでしょうが、現在迄の文科省のしていることは漢字使用制限とか敬語とかに気を取られて、本来の大和言葉を含めて日本語全体に対する政策は殆どなく日本語を放置しっ放しでした。その間、日本語は各分野にわたって無秩序な外来語の流入を許したため、学問分野、産業分野で齟齬の多い表記方法に溢れ、それらを習得に臨もうとする若年者に無用な負担とコストを強いて来たし、し続けています。日本語は元々、習得にとっては漢語使用の習得のためのコストの高い環境にありました。どんな言語も習得のためにはかなりの年数とコストがかかるものですが、日本語の場合その規模は格段に大きいものでした。もしそのような自覚が有れば日本語を負担の軽いものにして行くと云う発想もどこかで生まれたかも知れませんが、とうとうこれ迄そのような発想のあった事を見聞したことはありません。日本語の改革と云ってもそれ程緊急のこととは感じられないでしょうから後回しにされがちですが、百年単位のスパンで戦略を立てると云う発想には疎く、得意でない日本人のことですから、何をどうして良いかわからない筈です。日本語は日本国籍所有者に限らず、日本語話者の共有財です。それでは、日本語にとっての危機は存在するのでしょうか?まず、水村美苗「日本語が滅びるとき」2008ではどういう危機感を持っているでしょうか?

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